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執筆者の写真Shunta Takahashi

信じるとはどういうことなのか?

信じるという言葉ってすごく不思議な言葉じゃないか?ということをふと思った。 そうなると考えずにはいられないタチなので、その点について自分なりの答えを出すことにした。


すると、一つの特徴があることがわかった。

それは「事実に対しては信じるという言葉を通常使わない」ということだ。 例えば日本の人口が1.2億人であることを信じるか信じないか、という言葉は使わないし、日本語としておかしい。なぜなら、それは事実として存在するもので信じるかどうか以前に調べればわかるものだからだ。


つまり事実に対しては「信じる」という言葉は使わない。

逆に言えば、答えがない問題に対して使うのが「信じる」という言葉なのではないだろうか。


信じることができる人とできない人


ということを考えたときに、「信じること」は「意見を持つこと」と重なる部分があることがわかった。


それは、どちらにおいても自分のポジションを明確にするという点において一緒なのではないだろうか。


ちなみに全く一緒かというとそうは思わない。

なぜなら「信じる」という行為には、根拠はいらないし考えるという作業もなくてできるものに対して、「意見を持つ」際には根拠であったり、考えることが求められるからだ。

もちろん、根拠や考える作業を経ないと、何事においても信じることができないという人もいるし(僕自身もそうだ)、全く必要ないかといえば嘘にはなるが、、、、


日本人は信じることが苦手な人種だと思う


それらを考えたときに、日本人は極めて「信じること」を苦手とする人種ではないだろうか?ということを考えるようになった。


その理由としては、極論にはなるが「信じる」という行為を慣れていないからだ。


例えば自分も含めて、宗教的な思想を持っている人が少ないということがある。宗教は「信じる」という面において究極的な行為であり、海外の人たちはそれを幼い頃から日常としておこなってきた。


しかし日本人は近代以降、そういう行為をする人たちは少なくなってしまった。それが「信じる」という行為が日常に根付いていない要因ではないだろうか。


さらに、意見を述べなくても生きている日本という土壌において、自分のポジションを取るという習慣もない。


先ほど述べた通り、信じると意見を持つことはある点において共通する部分がある。 それゆえ、意見を持つ経験がなければ、必然的に信じるという経験もあまりできないのではないだろうか。


信じることができないとどういう人生になるか?


これからの時代において、ますます人生の選択肢が多様化する中で、自分が選んだ道を信じて進むということは、とっても大事になってくる。


それなので、この記事で述べたような「信じる」ということができることは、今はそんなに大事なことには思えないかもしれないが、これからますます重要になってくる。


そしてこれは一朝一夕では身につくものではなく、日々の習慣の積み重ねによって起こるものだ。


だからこそ、ぜひ日々意識して「信じるとは何か?」という問いを立てて生活をしてみてほしい。


そんな風にふと思い記事にしてみたのである。


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